いじめ動画が拡散されるたびに思う。なぜ「晒された加害者」だけが攻撃されるのか
いじめの動画がSNSで拡散されると、
必ず起きる光景があります。
-
加害者の顔や名前が特定される
-
一斉に非難・誹謗中傷が集まる
-
「自業自得」「因果応報」という言葉が飛び交う
確かに、いじめをした加害者が悪い。
そこに異論はありません。
でも、どうしても納得できないことがあります。
本当の問題は、その動画を撮っていた人、周りで見ていた人じゃないのかと。
動画を撮影していた時点で、すでに「傍観」ではない
いじめ動画の多くは、
第三者の視点から撮影されています。
つまり、
-
止められる距離にいた
-
助けを呼べる状況だった
-
それでも「カメラを回した」
これは、
ただ見ていただけではなく、記録する選択をしたということです。
その瞬間、
撮影者は「被害を止める側」ではなく、
いじめを成立させる側に一歩足を踏み入れています。
☞さらに追及すると『けしかけた首謀者』かもしれません。
周り(首謀者)からするとおもちゃとおもちゃが戦っている構図なんじゃないかと思うからです。
その可能性もあるなと考えると怒りに震えます。
なぜ撮影者や周囲は責められにくいのか
理由はシンプルです。
-
顔が映っていない
-
名前が分からない
-
「証拠を残した」という正当化ができる
その一方で、
動画に映った加害者だけが
一生消えない形で晒される。
これは正義でしょうか。
それとも、安全な場所からの石投げでしょうか。
周りにいた人間の責任は「軽い」のか
いじめは、
加害者一人で成立するものではありません。
-
笑っていた人
-
面白がっていた人
-
何も言わずに見ていた人
この空気があるから、
いじめはエスカレートする。
それなのに、
動画に映っていないという理由だけで、
責任から完全に外れる構図には強い違和感があります。
晒し文化は、被害者を本当に救っているのか
拡散された後、
被害者はどうなるでしょうか。
-
動画が半永久的に残る
-
自分が被害に遭った瞬間を、何度も見返される
-
「可哀想な人」として消費される
これを、
本当に「救い」と呼べるのか。
被害者が望んでいない拡散は、
新しい形の暴力になることもあります。
ですが、動画がなければ状況は変わらなかったでしょう。
だからこそ加害者であったとしても、周りから大勢で攻撃するのではなく、
解決や処分について、どういった判断を下すかを見極めること。
これが大事なのではないでしょうか。
本当に向き合うべきなのは「構図」そのもの
この問題の本質は、
-
加害者 vs 被害者
ではなく -
加害・傍観・拡散が連鎖する構図
です。
誰か一人を晒して終わりにすると、
「自分は映っていないから大丈夫」
という無責任さが温存されます。
結論:正義のつもりで、別の暴力を生んでいないか
いじめは許されない。
でも、
ネットでの集団攻撃が正義だとも思えない。